
2009年9月、マレーシア工場での量産開始に向けて、何とか必要な人員を揃えることができました。
しかし、それで問題が解決したわけではありません。
その後も退職、無断欠勤、遅刻が続き、現場はまさに綱渡りの状態でした。
当時の詳しい状況は、こちらの記事でも書いています。
安定した生産を続けるためには、安定した人材が必要です。
そこで私たちが重視したのが、外国人労働者の採用でした。
ローカル社員の採用ももちろん大切です。
しかし当時の状況では、採用してもすぐに辞めてしまうケースが多く、現場を安定させるには限界がありました。
一方、外国人労働者は一度採用できれば、基本的に数年間は安定して働いてくれます。
そのため、現場の安定化には欠かせない存在でした。
外国人労働者採用枠という壁
ところが、簡単には進みませんでした。
当時は、外国人労働者の比率について制限があり、全従業員の32%以内という決まりがありました。
すでに他部門を含めると、その上限に近い状態でした。
人事担当者は何度も人的資源庁へ足を運び、外国人労働者の採用枠拡大を申請していました。
しかし、なかなか許可は下りません。
「これ以上、外国人労働者を増やせない」
そうなると、採用面でも生産面でも厳しい状況が続きます。
人的資源庁の署長との面談
そんなある日、人的資源庁の署長が日本人と面談したいという話がありました。
私は人事担当者と一緒に、人的資源庁へ向かいました。
署長室に通され、署長を待つ間、壁に掲げられていたピラミッド型の人員配置図を眺めていました。
マレーシアの役所ではよく見かける形式です。
その配置図を見て、署長が女性であることがわかりました。
しばらくして女性署長が入って来ました。
人事担当者が、これまでの経緯を説明しました。
- 新聞、JobStreet、フードコートへの求人ポスターなど、さまざまな採用活動を行ったこと
- ローカル人員を募集しても採用に至りにくいこと
- 採用してもすぐに辞めてしまうこと
- 量産を安定させるために人員確保が必要であること
署長は一通り説明を聞いた後、こう聞きました。
私は率直に答えました。
最初、署長は少し難しそうな表情をしていました。
しかし、その後の会話の中で流れが変わりました。
日本好きの署長との出会い
署長から、
と聞かれました。
そこから一気に話が弾みました。
署長は日本が大好きで、日本のことをいろいろ知りたがっていました。
私は聞かれたことに、できる限り答えました。
日本の地域のこと、生活のこと、文化のこと。
採用枠の交渉に行ったはずが、途中から日本についての会話になっていきました。
もちろん、それだけで許可が出たわけではないと思います。
これまで人事担当者が何度も足を運び、採用活動の実績や現場の事情を説明し続けていたことが土台にありました。
ただ、その面談が大きなきっかけになったことは間違いありません。
結果として、外国人労働者の採用枠は50%近くまで拡大されました。
「これで安定した人材が採れる」
そう思い、本当に嬉しかったことを覚えています。
ベトナム・ミャンマー・ネパールでの採用活動
採用枠が拡大された後、実際に海外での採用活動を進めました。
訪れた国は、ベトナム、ミャンマー、ネパールです。
それぞれの国で印象的な出来事がありました。
ベトナム|ホーチミンから遠く離れた農村部の若者たち
ベトナムでの採用試験はホーチミンで行いました。
しかし面接に来た人たちは、ホーチミン市内の人たちではありませんでした。
バスで7時間ほどかかる地域から来ており、ほぼ全員が農家の出身でした。
英語も片言でした。
2010年当時、すでにホーチミンは経済成長が著しく、ホーチミン在住者は海外へ働きに出なくても、国内でより高い収入を得られる状況になりつつありました。
海外で働くという選択は、都市部の若者よりも、地方の若者にとって大きな意味を持っていたのだと思います。
ミャンマー|家族や親族が試験会場に来ていた
ミャンマーでは、ヤンゴンで採用試験を行いました。
印象的だったのは、試験会場に応募者本人だけでなく、親や親族も来ていたことです。
しかも、試験中に答えを教えようとしていました。
私は、
と伝え、本人以外にはその場を離れてもらいました。
一族の中で一人でも外国へ行き、収入を得ることができれば、家族全体の助けになる。
そんな思いがあったのかもしれません。
日本で採用試験をしている感覚とはまったく違いました。
ネパール|パスポートセンターの長い列
ネパールでは、カトマンズで面接を行いました。
町中は道路工事や建設が多く、埃っぽい印象でした。
あちこちに大きな煙突があり、煙を出していました。
地元の人に聞くと、それはレンガ工場だということでした。
掘り出した土でレンガを作り、そのレンガで道路の枠や建物を作る。
まさに地産地消です。
また、パスポートセンターの周りには、何重にも輪ができるほど人が集まっていました。
パスポートの申請や発行を待つ人たちでした。
日本ではなかなか見ることのない光景です。
海外で働きに出ることが、それだけ大きな選択肢になっているのだと感じました。
ネパールの応募者は、英語能力が高かったことも印象に残っています。
ほぼ全員を採用した理由
各国で面接を行いましたが、結果的には健康上の問題がない限り、ほぼ全員を採用しました。
もちろん、能力や適性も見ました。
しかし、それ以上に当時の現場には人材が必要でした。
そして彼らには、海外で働こうとする強い理由がありました。
- 家族を支えたい
- 一族の生活を助けたい
- 自分の未来を変えたい
- 海外で収入を得たい
この必死さは、面接の場でも伝わってきました。
彼らは会社の大きな戦力になった
マレーシアに来てから、彼らは本当に一生懸命に働いてくれました。
言葉の壁もありました。
生活環境の違いもありました。
仕事を覚える苦労もあったと思います。
それでも、彼らは一生懸命に勉強し、現場に欠かせない戦力になっていきました。
ベトナム人労働者にはエンターテナーが多く、毎年のAnnual Dinnerでは、ダンスや歌で会場を盛り上げてくれました。
ネパールで大きな地震があった時のことも忘れられません。
朝一番に彼らのもとへ行き、
と聞きました。
すると彼らは、
と言い、胸の前で手を合わせて、深く頭を下げました。
その姿は今でも忘れられません。
会社を支えていたのは誰だったのか
当時、会社を支えていたのは間違いなく彼ら外国人労働者たちでした。
もちろんローカル社員にも優秀な人は多くいました。
しかし、生産現場の安定という意味では、外国人労働者の存在は非常に大きなものでした。
だからこそ、私は彼らを公平に評価する必要があると考えました。
ローカル社員と外国人労働者を区別せず、仕事ぶりや貢献度で評価する。
その考え方は、後のポイント制人事考課システムにもつながっていきました。
まとめ
外国人労働者の採用枠拡大は、単なる手続きの問題ではありませんでした。
採用できない。
採用しても辞める。
現場が安定しない。
それでも生産を止めるわけにはいかない。
そんな状況の中で、人的資源庁への申請、署長との面談、海外での採用活動を通して、少しずつ道が開けていきました。
そして実際に来てくれた彼らは、現場を支える大きな力になりました。
国籍や言葉の違いはあります。
文化の違いもあります。
しかし、仕事に向き合う姿勢や家族を思う気持ち、努力する姿には、心を動かされるものがありました。
今振り返っても、彼らには心から感謝しています。
企業はヒトなり。
この言葉の意味を、マレーシアの現場で彼らから教えてもらった気がします。


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