
もしあの時、別の選択をしていたら――他人という存在の見え方
「もしあの時、別の選択をしていたら――」
この問いを考えているうちに、ふとこう思いました。
もしかすると、その「別の選択をした自分」が、他人なのではないか。
一番わかりやすいのは、育った環境が近い人たちです。
- 兄弟姉妹
- 幼馴染
- 小学生時代の友達
同じような環境で育ち、似たような情報を受け取りながらも、
それぞれが違う選択をしてきました。
その結果が、今の「彼ら」であり、
「違う選択をした自分の姿」
と捉えることもできるのではないかと思います。
SE的に見ると…
同じ初期条件(環境・入力)からスタートしても、
IF分岐で異なる選択をしていけば、最終的な出力は大きく変わります。
人間も同じで、分岐の積み重ねによって「別の結果=別の人格」が形成されていると考えられます。
他人は「別のルートを進んだ自分」かもしれない
こう考えると、他人の見え方が少し変わってきます。
これまでは、
- なぜこんな考え方をするのだろう
- どうしてこんな行動を取るのだろう
と感じていた人に対しても、
「この人は、自分とは違う選択をしてきた結果なのかもしれない」
と思えるようになります。
さらに言えば、
「別のルートを進んだ、もう一人の自分」
とさえ感じられるかもしれません。
気に入らなかった人への見方が変わる
この視点を持つと、これまで苦手だった人や、気に入らなかった人に対する感情も変わってきます。
その人は単に「合わない人」なのではなく、
自分とは違うIF分岐を選び続けた結果の存在
と考えることができます。
そう思えると、不思議と距離感が変わり、
ほんの少しですが、親近感のようなものが生まれてきます。
違いは対立ではなく「分岐の違い」
人と人の違いは、優劣ではなく「通ってきた分岐の違い」と考えると、
感情的な対立が少し和らぎ、冷静に相手を見ることができるようになります。
対話は「分岐をたどる作業」
もしそうだとすれば、人と話すことの意味も変わってきます。
単なる意見交換ではなく、
「どの分岐で違う選択をしたのか」を探る行為
とも言えるのではないでしょうか。
例えば、
- どの経験がその考えを生んだのか
- どのタイミングで価値観が変わったのか
- その後どんな選択肢が現れたのか
そうした話を冷静に、正直に共有することで、
自分とは異なる「もう一つのルート」を知ることができます。
もちろん、すべてを完全に理解することはできません。
それでも、
自分とは違う選択の連鎖を知ること
は、とても意味のあることのように思えます。
人はなぜここまで分かれるのか
生まれたばかりの頃、人はほとんど同じような存在だったはずです。
それが、
- 環境の違い
- 出会う人の違い
- 経験の違い
- 選択の違い
によって、何十億通りにも分かれていきます。
この分岐の広がりは、まるで巨大なツリー構造のようで、
考えれば考えるほど不思議な感覚になります。
人間は分岐の集合体
一人の人間は単体ではなく、無数の「もし別の選択をしていたら」という可能性の中から、
たまたまこのルートを通ってきた存在とも言えます。
他人を「もう一人の自分」として見る
ここまで考えると、最後にこう感じます。
他人として見るより、「もう一人の自分」として見る方が、人間は愛おしく思える。
完全に同じではない。
でも、どこかで分岐しただけの存在。
そう考えると、
- 理解できなかった人
- 受け入れられなかった人
- 距離を置いていた人
に対しても、ほんの少し違った感情が芽生えてきます。
人はバラバラなのではなく、
分岐しただけで、どこかでつながっている存在
なのかもしれません。




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