1965年、なぜシンガポールはマレーシアから分離したのか|リー・クアンユーが涙を流した日

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これまで3回にわたって、マレーシアのブミプトラ政策について見てきました。

なぜ民族によって異なる政策が生まれたのか。

なぜ50年以上たった今も、その考え方が残っているのか。

そして、ブミプトラ側からも「このままでいいのか」という声が出ていること。

ここまで来ると、ひとつ気になる国があります。

シンガポールです。

現在のシンガポールは、マレーシアとは別の国です。

しかし約60年前、両国は同じ国でした。

1963年9月16日、シンガポールはマラヤ連邦、サバ、サラワクとともに「マレーシア」を形成します。

ところが、そのわずか2年後。

1965年8月9日。

シンガポールはマレーシアから分離し、独立国家になりました。

しかもシンガポールの首相リー・クアンユーは、独立を発表する記者会見で涙を流しました。

独立したのに、なぜ泣いたのでしょう。

今回は時計を1965年まで戻してみます。

リー・クアンユーは最初から独立を望んでいたわけではない

現在のシンガポールを見ると、

「最初から独立して成功するつもりだった」

と思ってしまいそうです。

しかし、実際は逆でした。

リー・クアンユーは、シンガポール単独での将来に大きな不安を持っていました。

国土は小さい。

天然資源もほとんどない。

水さえ隣国に依存する。

国内市場も小さい。

そして当時は失業問題も抱えていました。

リー・クアンユーは、シンガポールが安定して発展するには、マラヤという大きな後背地と市場が必要だと考えていました。

そのため彼自身が、マラヤとの統合を強く推進したのです。

つまり、

リー・クアンユーにとってマレーシアとの統合は、失敗しても構わない実験ではありませんでした。

シンガポールの生き残りをかけた国家戦略だったのです。

1963年、マレーシア誕生

1962年、シンガポールではマレーシアとの統合をめぐる住民投票が行われました。

そして翌1963年9月16日。

マラヤ連邦、シンガポール、サバ、サラワクによってマレーシアが成立します。

リー・クアンユーにとっては長年目指してきた統合でした。

しかし、結婚してみたら価値観がまったく違った。

少し乱暴な言い方をすれば、そんな状態だったのかもしれません。

最大の違いは「どんな国を作るのか」

シンガポールとマレーシア中央政府の間には、さまざまな対立がありました。

税金。

共通市場。

財政負担。

選挙。

そして、もっと根本的な問題。

「マレーシアとは、誰のための国なのか」

という国家観の違いです。

当時のマレーシア政治では、マレー人の特別な地位を重視する考え方が大きな意味を持っていました。

一方、リー・クアンユーとPAP(人民行動党)は、

「Malaysian Malaysia(マレーシアン・マレーシア)」

という考え方を強く主張するようになります。

簡単に言えば、

「マレー人のためのマレーシアでも、中国人のためのマレーシアでもない。マレーシア国民のためのマレーシアであるべきだ」

という考え方です。

リー・クアンユーは、国家が特定の民族の優越や利益を中心に考えるべきではないと主張しました。

現在の感覚で聞けば、それほど過激な主張には聞こえないかもしれません。

しかし当時のマレーシアでは、この主張は極めて政治的な意味を持っていました。

人口構成も大きな問題だった

ここで人口構成を考える必要があります。

シンガポールには中華系住民が多く暮らしていました。

シンガポールがマレーシアに加われば、連邦全体の民族構成にも大きな影響を与えます。

マレーシア中央政府側には、

シンガポールの政治勢力が半島部にまで進出すれば、従来の政治バランスそのものが変わるのではないか、

という警戒感がありました。

そして実際、PAPは1964年のマレーシア総選挙で半島部の選挙にも候補者を立てました。

結果として獲得した議席はわずかでしたが、

中央政府側から見れば、

「シンガポールの政党がマレーシア全体の政治に進出してきた」

という意味を持ちました。

政治的な緊張はますます高まっていきます。

1964年、民族対立が現実の暴力になった

そして1964年。

恐れていたことが起きます。

シンガポールでマレー系住民と中華系住民の間に大規模な民族衝突が発生しました。

7月の暴動では22人が死亡し、461人が負傷したとされています。

政治的な対立が、単なる議会の議論ではなく、人の命を奪う現実の問題になったのです。

リー・クアンユー自身も当時、

民族対立を続ければ、最終的には民族ごとに人々が住む地域を分けるような「partition(分割)」に向かう危険性を語っていました。

この時点で、

「一緒にやっていくこと自体が、国を危険にしているのではないか」

という問題になっていきます。

統合からわずか2年で限界に

1965年になると対立はさらに激しくなります。

リー・クアンユーらは複数の政党とともにMalaysian Solidarity Conventionを形成し、

「Malaysian Malaysia」

を前面に掲げました。

一方、中央政府側には、この動きが民族間の政治バランスをさらに不安定にするという強い懸念がありました。

当時のマレーシア首相トゥンク・アブドゥル・ラーマンは、最終的に、

シンガポールと一緒にいることで対立がさらに深刻になるより、別れた方がよい

と判断します。

1965年8月9日のマレーシア議会で、トゥンクはシンガポールとの関係について、

何か一つ問題を解決すると別の問題が起こり、もはや一緒にやっていく方法を見いだせない、

という趣旨の説明をしています。

彼にとっても、分離は喜ばしい決断ではありませんでした。

「追い出された」は半分正しく、半分単純すぎる

シンガポールについて、

「マレーシアから追い出された国」

という表現をよく耳にします。

確かに、シンガポール側が望んで独立運動を起こし、マレーシアから離脱したという話ではありません。

分離を最終的に強く選択したのはマレーシア中央政府側でした。

その意味では「追い出された」という表現にも理由があります。

しかし実際の手続きはもう少し複雑です。

1965年8月7日、マレーシア政府とシンガポール政府の間で秘密裏に交渉された分離協定が締結されました。

そして8月9日、マレーシア議会でシンガポール分離のための憲法改正が進められます。

つまり、

政治的には中央政府が分離を選択したものの、法的には両政府の合意と議会手続きを経て分かれた。

というのが実態に近いでしょう。

1965年8月9日、突然「国」になった

そして1965年8月9日。

ラジオで、シンガポールがマレーシアから分離したことが発表されました。

シンガポールはその日から、

独立した主権国家

になりました。

しかしこれは、多くの国の独立とは少し違います。

植民地支配者を追い出して勝ち取った独立でもありません。

長年の独立運動が実を結んだわけでもありません。

むしろ、

独立したくなかったのに、独立国家として生きていかなければならなくなった。

そんな珍しいスタートでした。

リー・クアンユーが泣いた理由

同じ8月9日。

リー・クアンユーはテレビの記者会見でシンガポールの分離について説明しました。

そして話の途中で言葉に詰まり、涙を流します。

後に「moment of anguish(苦悩の瞬間)」として知られる場面です。

なぜ泣いたのでしょう。

リー・クアンユーは長年、

シンガポールとマラヤは一つになるべきだと考えてきました。

地理的にも。

経済的にも。

歴史的にも。

互いに切り離すことのできない存在だと信じていました。

その統合を自ら推進し、実現した。

それがわずか2年で崩れたのです。

しかも、その先には何の保証もありませんでした。

人口約200万人。

国土は小さい。

天然資源はほぼない。

軍隊も十分ではない。

国内市場も小さい。

国際社会の中で生き残れるかどうかも分からない。

今の豊かなシンガポールを知っている私たちは、

「その後成功する」

ことを知っています。

しかし1965年8月9日のリー・クアンユーには、その未来は見えていません。

彼に見えていたのは、

明日からこの小さな島を、一つの国家として生き残らせなければならない

という現実だけだったのではないでしょうか。

独立宣言に書かれた「より公正で平等な社会」

シンガポールの独立宣言を見ると、非常に興味深い言葉があります。

新しいシンガポールを、

「justice(正義)」を基礎とし、「more just and equal society(より公正で平等な社会)」を目指す国家

としています。

この言葉は、これまで見てきたマレーシアの民族政策と並べて考えると非常に興味深く感じます。

同じ多民族社会から生まれた二つの国。

しかし、国づくりについて異なる考え方を持つようになりました。

もちろん、

「マレーシアは民族主義、シンガポールは完全な平等主義」

などと単純に分けられるものではありません。

シンガポールにも民族別の社会政策はあります。

そしてマレーシアにも、民族を越えて国民を支援する多くの制度があります。

それでも両国が国家を設計する際に置いた重点には、かなり異なる部分がありました。

資源のない国に残されたもの

シンガポールには石油もありません。

広大な農地もありません。

鉱物資源もほとんどありません。

国土も狭い。

国内市場も小さい。

では、何を使って国を作るのか。

残された最大の資源は、

「人」

でした。

能力のある人材を育てる。

能力のある人間を政府に集める。

汚職を抑える。

外国企業を呼び込む。

教育を徹底する。

港という地理的条件を最大限利用する。

そして世界と商売する。

1965年以降、リー・クアンユーとその仲間たちは、この方向へ徹底的に進んでいきます。

私なりに言えば「閣僚と官僚にはバカを置かない」

私はリー・クアンユーという人物を非常に興味深く見ています。

彼の国家運営を、私なりにかなり乱暴な言葉で表現するなら、

「閣僚と官僚にはバカを置かない」

という考え方だったのではないかと思います。

もちろん、これはリー・クアンユー本人の言葉ではありません。

私なりの表現です。

しかし彼は実際に、閣僚を選ぶ際にも能力を非常に重視しました。

独立直後には、

ゴー・ケン・スイを国防、

S・ラジャラトナムを外交、

オン・パン・ブーンを教育、

といったように、それぞれの能力を見ながら人材を配置していきました。

資源がないのなら、

政府そのものを競争力にする。

これはシンガポールという国を理解するうえで、非常に重要な考え方だと思います。

約60年前、二つの国は別々の道を歩き始めた

1965年8月9日。

マレーシアとシンガポールは別々の国になりました。

一方は、

広い国土を持ち、

石油や天然ガス、パーム油などの天然資源を持つ国。

もう一方は、

小さな島と港、そして人しか持たない国。

民族構成にも共通点があります。

歴史も文化も食べ物も深くつながっています。

それでも二つの国は、異なる国家運営を選びました。

そして約60年後。

世界でも屈指の豊かな都市国家になったシンガポールがあります。

ではリー・クアンユーは、この資源のない小さな国をどうやって生き残らせたのでしょう。

次回は、

「資源がないなら、人を資源にする」

というシンガポールの国家戦略を見ていきたいと思います。

個人的には、このあたりからリー・クアンユーという人物がますます面白くなってきます。



※本記事はマレーシアとシンガポールの歴史を日本人向けに紹介することを目的としたものです。1965年の分離には民族問題だけでなく、政治、経済、財政、選挙、治安、共通市場など複数の要因があり、単一の理由で説明できるものではありません。また「追い出された」という表現だけでは、両政府による分離協定と法的手続きを十分に表現できないため、本文では経緯を補足しています。

参考資料

  • National Archives of Singapore「Proclamation of Singapore, 1965」
  • National Heritage Board / Roots.sg「Lee Kuan Yew」
  • National Heritage Board / Roots.sg「Struggle for a Malaysian Malaysia」
  • National Heritage Board / Roots.sg「45-65: Liberation, Unrest… A New Nation」
  • Parliament of Malaysia, Parliamentary Debates, 9 August 1965
  • Lee Kuan Yew, Malaysian Solidarity Convention speech, 6 June 1965

 


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